江戸時代のお風呂事情について浮世絵を見ながら深堀していこう。
江戸時代の風呂事情についても浮世絵が残されていて、それは現代の僕たちが当時の人たちの暮らしを知る大きな手掛かりとして貴重な記録になっている。
江戸の人たちは風呂が大好きだったのである。
蛇口をひねれば水が出るような時代ではなかったのに風呂が好きだったというのは、意外に思われる方もいるだろう。
歌川国貞
なんと、江戸の町には水道が引かれていたのだ。
歌川広重『東都名所 御茶之水之図』
神田上水は江戸時代の江戸に設けれた上水道であるが、水はやはり貴重であり、薪も高価なものであった。当然、内風呂を持っている家なんて、ほとんどなかったのである。
家に風呂がないので何処へ行くかというと「湯屋」という公衆浴場、言わば銭湯の風呂に入りに行く。
武士だろが商人であろうが、みんな湯屋で一風呂浴びるのである。
風呂が好きな江戸の人たちは、仕事前に朝風呂、仕事終わりに夕風呂と2回入るのは当たり前、4~5回入るなんてこともあるという。
江戸には、しずかちゃんみたいな人たちが沢山いたということだ。
江戸時代は、ほとんどの湯屋が混浴であった。
現代の僕たちからすれば驚きな事実ではあるが、原始時代の祖先なんて男女ほぼ裸で生活していたのだから驚くようなことではないかもしれない。
しかし混浴というのは皆が皆、マナーを守って入れば問題はないが、そりゃ中には変態がいるのは否めない。
混浴であることに男女のデートスポットになるのは当然だが、女性のカラダに触ろうとする変態男も出没してしまうのも当然と言えば当然。
「触っちゃダメですよ~」と注意されたって、混浴の場に目の前で裸の女性がウロチョロしていたら余程の精神力がないと耐えられないのではないか。
それが当たり前の日常の風景となっていれば、もしかしたら何とも思わないかもしれないが。
そんなこんなで「風紀を乱しちゃいかん!」と風紀委員長のように規制したのが、寛政の改革を行った松平定信である。
松平定信は禁欲主義者で、男女の交わりは子孫を残すためのものと考えていたので「混浴禁止」と規制。
そうは言っても男女別々で入浴日を分けたり、男湯女湯と分けるのも面倒臭いし、客足も遠のいてしまうのは困ったものだ。
脱衣所や洗い場は分けるけど「混浴」を避けるための仕切りは粗末なもの。仕切りの下をくぐり抜ければ浴槽はつながっているので男湯女湯の行き来が出来てしまうのだ。
のぞきも簡単に出来たそうなので、規制というのは中々難しいもの。また厳しく取り締まっていたわけでもなかったので、夫婦や家族は一緒に入浴することは許されていたし、江戸以外の地域では混浴でも問題なかったのである。
それでも変態抑止には繋がって、独身女性が安心して入浴できる状況になったことは良かったことだ。
混浴ではなくなったが、入口から脱衣所、浴槽まで、丸見え状態。
豊原国周『肌競花の勝婦湯』
女性の背中を流しているのは「三助」というサービス係で、お客さんの背中を流したりマッサージをしたりしていた。
またこれだけのお客さんで賑わうのだから、時には素っ裸でケンカをする光景もあったのだろう。
歌川芳幾『競細腰雪柳風呂』
水が貴重であったために女性の洗髪は月に一度だけ。
三代歌川豊国『江戸名所 百人美女 今川はし』
現代人のようにシャワー流しっぱなしで、水を使い放題なんてことは出来なかったのである。それが当たり前の時代ならば、ツライも何もないかもしれないが。
『入浴』はだかの風俗史―浮世絵で見るお風呂の歴史と文化花咲 一男 (著) |
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