屏風絵は絵師の巧みな技術によって生み出される大作の芸術作品であるが故に、世代を越えて年々と脈々と受け継がれていく。
様々な魅力的な屏風絵が存在するが、今回は戦国の世を描いた「長篠の戦い」を屏風絵から歴史的背景を読み解いていく。レッツラゴー!!
「長篠の戦い」を描いた屏風絵。
「長篠の戦い」とは1575年6月29日、三河国長篠城(愛知県新城市長篠)をめぐって、3万8千の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千人の武田勝頼の軍勢が戦った合戦である。
動員兵力や鉄砲の数から見ても、織田信長・徳川家康連合軍の勝利であった。
細かく描かれた屏風絵の縮小画像では非常に見づらいので、一部を拡大しながら解説していく。
織田家は、当時では異例の鉄砲3000丁を用意して兵に配布。新戦法三段撃ちを行ったとされるのが有名であり、馬防柵の中から三弾撃ちをしたと言われているが、屏風絵を見ると馬防柵の前で鉄砲を撃っている。
伝えられている史実が正しいのか、屏風絵が正しいのか、肉眼で「長篠の戦い」を目撃したわけではないので、どちらが正しいのかはわからない。
ただ「鉄砲三段撃ち」は有名な戦法ではあるが実在は疑問視されていて、『信長公記』では鉄砲奉行5人に指揮を取らせたとだけ記されている。具体的な戦法や三段撃ちを行ったという記述はないのだ。
武田軍が朝から昼過ぎまで数時間も鉄砲の射程圏内に留まって、延々と鉄砲で撃たれ続けるなんてことは、どう考えてみても不自然(火縄銃の有効射程は50~100m)である。
「三段撃ち」説が広まったのは最初に江戸期に出版された通俗小説に見られて、それを明治期の陸軍が教科書に史実として記載(「大日本戦史」1942年出版)されたことだ。
さらに『信長公記』の記述では柵から出入りしていたとあるので、通説は非常に疑わしく、屏風絵の方が信憑性があると個人的には判断する。
現代語訳 信長公記 |
六芒星
屏風絵の一番左端の上部で鎧を身にまとって白馬にまたがっているのが織田信長である。
合戦の様子を一番後ろで見物しながら、いざとなったら馬で逃げてしまおうかという姿勢であるのかは、僕の推測。
その織田信長の足元に白羽織の男が3人いて、背中を朱の星で大きく染め抜いているのが見える。
「あんた達いったい誰?」
あまりにも奇妙な感じがするのだが・・・。
この「六芒(ろくぼう)星」という星印は、陰陽師のシンボルである。
彼らは星の動きを観察して天文の計算によって日食を予測するなど、風雲(気象)を監視する天気予報士である。
六芒星の陰陽師たちは、戦闘に適した日程を天気を予報して織田信長に伝えたのだ。
六芒星の彼らに関しても深く調べていくと、屏風絵の原本、成瀬家本では「六芒星」ではなく、信長が朝廷から許された菊紋「十六葉菊」が描かれている。
その成瀬家本では、家康本陣に六芒星の男が2人いるのだ。彼らの手には槍や薙刀が持たれている。
そして成瀬家本とは違い、大阪城天守閣本では六芒星は信長本陣に移動して手には何も持たれていない。
僕たちが見聞した伝えられている史実は常に諸説ありで、知っている歴史が必ずしも正しいとは限らない。
学校の教科書で習ったことが実は全然違ったなんていうことがあるから、学問は無駄とは思わず、新たなる発見があるからこそ知って学ぶことは面白いと思うのだ。
戦国を題材にした小説や漫画、大河ドラマの内容が全て正しいなんてことはあり得ないし、屏風絵もまたひとつの参考文献に過ぎない。
歴史を読み解く資料としては参考文献に過ぎないが、僕たちにとっての芸術作品、娯楽作品にもなっているのだ。
図説・戦国合戦図屏風―決定版高橋 修 |
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