キネマ旬報シアター、千葉県は柏にある映画館に塚本晋也監督の『野火』を観て来た。
8/12、この日は『野火』の上映後に塚本晋也監督のトークショー&サイン会もあり観に行くと決めて来たのだ。「今年、塚本晋也監督に会おう」と思っていた事もあって、行かない理由がなかった。
それは塚本晋也監督が、僕の最も尊敬する映画監督であるからだ。
何故、最も尊敬しているのか?彼は商業映画での監督や出演も務める上に、自らの『海獣シアター』という会社の代表で数々の映画を自主映画で製作している。
海外でも評価されて、日本映画の監督には珍しく、しっかりと海外にも視野を広げて活動をしている。
その実績は海外の映画祭での数々の受賞や審査員等も務めて、2017年に日本で公開されたマーティン・スコセッシ監督の『沈黙 サイレンス』に出演も果たした。
今回、僕が観に行った2015年に公開された『野火』では、監督/製作/脚本/撮影/編集/出演という、一人で何役も兼任しているのだから、「凄い!」としか言いようがない。
1989年公開された自主映画の名作『鉄男』では、美術も照明も担当している。
何故、一人で多くのものを塚本晋也監督一人で兼任しているのか?それは、どのパートも好きだかららしい。撮影するのも美術をするのも出演も監督も。
もしかしたら映画監督の中には「監督だけに集中した方がいい」なんて声もあるかもしれないが、残念ながら、やれる人はやれるんだね。野球の大谷翔平を「打者と投手での二刀流はやめた方がいい」と一刀流でも活躍出来ない選手が批判しても意味がなくて、やれる人はやれちゃう。北野武監督も出演はするし、お笑い、キャスター、小説、漫才、漫談、落語等、色んな事を精力的にやってのけちゃう。そしてキッチリと評価もされている。
あまりにも残酷で壮絶な戦争の記録。この映画は、幾度となく目を背けたくなる残虐な描写がある。それは戦争映画には必要不可欠であると僕は思っている。娯楽のアクション映画のようにバンバンと人を撃ち、あまりにも無造作に人々が死んでいく、そんな描写では戦争映画として成立しない。
撃たれたら、脳みそは飛び散るし、内臓は飛び出るし、手足は千切れてしまうものだ。
それでも実際の戦場では、もっと酷い状況であるはずなのだ。
『野火』を観るのは二度目だ。一度目はネット配信で観た。二度目となる今回は、映画館の大きなスクリーンで観て、スマホで観るのと音響も全然違うわけだから、それは迫力も凄かった。
残虐なシーンと、フィリピンでの美しい空と大地、海が、あまりにも正反対に対峙する事が、「なんて人間は愚かなんだ!」という事を僕たちにひしひしと訴えかけている。
見終えた後の毎回ずっしりと残るモヤモヤは、何とも表現し難い複雑な感情だ。
尊敬して憧れる塚本晋也監督が舞台に登壇した。インタビューに応じて、また観客からの質疑応答に答えながら『野火』に関する説明をしてくれた。
元々『野火』は大岡昇平さん原作の小説があり塚本監督が高校生の頃に読んで、その当時から「いつか映像化したい」と思っていたらしい。1959年にも市川崑監督でモノクロの『野火』が公開されている。
塚本監督は『野火』を読んだ時に克明に映像が、頭の中にあって美しい風景と残虐な戦争の映像をカラーで表現したかったらしい。ずっと映像化したいという想いを抱いていた塚本監督は終戦70周年という時期を迎えた頃、戦争体験者が生きている内に体験者の生の声を聴くという事をした。フィリピンでの取材時は戦争当時の人が死んでいる写真も見たという。
映画制作の裏話では、予算の関係上フィリピンでのシーンは塚本晋也監督だけが出演して、後は日本で撮影したという。
映画を撮る時は毎回とんちを利かせて予算がない時にどう撮るか?を考えるらしい。例えばフィリピンの教会で銃を撃つシーンでは、教会を汚す事が出来ないので相手が撃たれるシーンだけを日本で撮る等、工夫をしている。死体からうじ虫が大量に出てくるシーンは、パスタ(中が空洞になっているマカロニ?)を使っている。
また他の人が監督をする作品に出演する時は「自分ならこうするのになぁ」とか、一切思わないらしい。映画の、その監督のファンとして役者を精一杯やるとのこと。
貴重なトークショーの後、サイン会が開催されて、憧れの塚本晋也監督に大接近した。「僕も自主映画を撮っていて、塚本晋也監督をいちばん尊敬しています。監督や出演、撮影など色んな事をして凄いです!」と言うと、「色んな人に手伝ってもらってるからねぇ」と。
パンフレットにサインをいただいて僕も大満足。
『野火』は壮絶な戦争の記録である。
『野火』は壮絶な戦争の記憶として、僕たちの心に刻まれて、今後もずっと映画を通して語り継がれていく。
『野火』 監督:塚本晋也 主演:塚本晋也リリー・フランキー中村達也 |
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