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歌舞伎役者絵で見る『市川團十郎』

者絵と呼ばれる歌舞伎をモチーフにした浮世絵の色使いやインパクトなどに魅了される。

浮世絵と歌舞伎役者の相性はとても良い。

今回は歌舞伎の名門「成田屋」の屋号を持つ市川宗家の『市川團十郎』という歌舞伎役者に焦点を当てて、役者絵を通しながら『市川團十郎』を解説させていただく。

 

市川團十郎


ちなみに現在、僕たちが馴染みのある歌舞伎役者の市川海老蔵さんは、2020年5月に『十三代目市川團十郎白猿』を襲名されるのだ。

 

『十三代目市川團十郎白猿』襲名披露の興行は、歌舞伎座5月、6月、7月のほか、11月博多座、2021年2月大阪松竹座、4月御園座、11月南座と続く。2021年3月と9月は全国各地での巡演も行われる。

 

初代 市川團十郎 万治3年(1660年) – 元禄17年2月19日(1704年3月24日)

 

江戸時代に歌舞伎役者として多大な人気を博していた團十郎は、狂言作家としても才能を発揮。それまでの歌舞伎界にはない新たる荒事芸(あらごとげい)を取り入れて、江戸歌舞伎の創始者ともいえる存在になり、「東の團十郎」と称されて市川宗家「成田屋」を作り上げた。

初代團十郎が作り出した代表的な作品は、『暫(しばらく)』『鳴神(なるかみ)』『勧進帳(かんじんちょう)』など。

最期は舞台上で歌舞伎役者によって腹を刺されて殺されるという衝撃的なものであった。

 

2代目 市川團十郎 元禄元年10月11日(1688年11月3日)- 宝暦8年9月24日(1758年10月25日))

 

初代團十郎によって確立された荒事を二代目團十郎に継承される。

しかし市川宗家に対する支持はなく、若い團十郎は親の七光りでスターにはなれなかったが、宝永6年の『傾城雲雀山(けいせいひばりやま)』の久米八郎で艾売(もぐさうり)のセリフが大当たりしたことが転機になる。

役者の氏神」と称されて江戸歌舞伎を代表する名優となり、千両役者という称号も二代目が初めてである。

 

3代目 市川團十郎 享保6年(1721年)- 寛保2年2月27日(1742年4月2日)


五歳で二代目團十郎の養子に。同年に初舞台。

享保20年、養父二代目の隠居にともなって三代目市川團十郎を襲名。

しかし寛保元年、旅先の大坂で発病して、翌年の初め22歳で病死した。

 

4代目 市川團十郎 正徳元年(1711年)- 安永7年2月25日(1778年3月23日)

 

芝居茶屋の和泉屋勘十郎の次男であるが、実は二代目市川團十郎の隠し子ともいわれている。

正徳3年に初代松本幸四郎の養子となって、享保20年には二代目幸四郎を継いだ。その後に二代目團十郎の養子となる。

宝暦4年、43歳で四代目團十郎を襲名。

四代目團十郎はカラダが痩せていて顔も細面で、荒事を特色とする市川家の後継としては不向きな役者であった。團十郎襲名後も荒事には失敗して唯一暗い役柄である『景清』で成功をしたりして、「團十郎らしからぬ團十郎」だと呼ばれた。

当時流行していた江戸っ子な役柄を演じて大人気を得て時世を風靡した。

明和7年、息子に團十郎を継がせて自身は再度松本幸四郎を名乗った。後に三代目市川海老蔵となる。以降は舞台を休みがちになって、安永5年の秋に剃髪して引退した。

 

5代目 市川團十郎 寛保元年(1741年) – 文化3年10月30日(1806年12月9日)

 

寛政3年11月、51歳の時に江戸市村座で市川蝦蔵を襲名になったが、襲名口上で祖父、親は『海老蔵』の字を付けましたが、私がえびはざこ蝦(雑魚えび)の文字を用いまする」と謙虚に述べた。

同時に俳名を白猿としたが、これにも口上で「祖父の栢筵の音だけを頂戴し、名人には毛が三本足らぬおれは白猿」と述べて周囲を煙に巻いていた。(余談だが、2020年5月の市川海老蔵さんも「白猿」と襲名される。)

18世紀後半における江戸歌舞伎の黄金時代を作り上げた名優であった。

 

6代目 市川團十郎 安永7年(1778年)- 寛政11年5月13日(1799年6月16日)

 

安永7年 、五代目市川團十郎の子として生れるが妾腹だったため、門弟の二代目市川升蔵に引き取られて、そこから父のいとこにあたる芝居茶屋の和泉屋勘十郎の養子に入れられ、さらに天明2年に改めて父の養子として迎えられたのだ。

寛政3年 、六代目市川團十郎を襲名。

花やかであり美男役者で人気も高かったのだが、同11年に『助六』で当りを取ったのち、風邪をこじらせて急死。享年わずか22歳であった。

 

7代目 市川團十郎 寛政3年(1791年)- 安政6年3月23日(1859年4月25日)

 

五代目市川團十郎の次女の子供として生まれた。

寛政6年に初代市川新之助として初舞台を踏む。

叔父の六代目團十郎が若くして亡くなったことによって、寛政12年に10歳で團十郎を襲名。

19世紀前半の歌舞伎界を代表する役者となった。

 

8代目 市川團十郎 文政6年10月5日(1823年11月7日)[1] – 嘉永7年8月6日(1854年9月27日)

 

天保3年、10歳で市村座で八代目市川團十郎を襲名。

天保13年に父親の七代目團十郎が江戸追放になり、八代目は16歳で江戸歌舞伎界の最高責任者となる。

弘化2年、父に代わって家を守る親孝行者として幕府により表彰される。八代目の人気は爆発的に高まって、「助六」の舞台上で八代目が身を沈めた桶の水を美顔水として、とっくり1瓶1分(現在価格約3000円)で販売すると飛ぶように売れた。中には八代目の痰を「団十郎の御痰守」として販売する者まであったという。

上品で独特の色気があって、おっとりとした愛嬌が身にそなわって嫌味がなかった。

嘉永7年、大坂の芝居初日に旅館の一室で突如喉を突いて自殺する。享年32歳。

動機は不明。一説では七代目の作った多額の借金返済のために、大坂の芝居に出演することになってしまったため、江戸の座元(劇場所有者)への義理を立てたといわれている。

八代目の死絵は300種も出たという。

 

9代目 市川團十郎  1838年11月29日(天保9年10月13日) – 1903年(明治36年)9月13日)

 

明治元年、秋に浪人の押し入り強盗によって養父が自宅で刺し殺されて、自身も納戸に隠れて九死に一生を得るという惨事に遭遇した。

明治7年、37歳で九代目 市川團十郎を襲名。

九代目は荒事から和事、立役から女形と幅広い役柄をこなして、舞踊に秀で、その所作も口跡も優れたものであった。

 

大いなる魅力


さて初代から9代目まで紹介したが、10代目以降は「役者絵」ではなくて「写真」なので解説はここまで。

2020年5月に『市川團十郎』を襲名する市川海老蔵さんは13代目となる。

役者絵を通して『市川團十郎』の片鱗に触れたが、浮世絵も役者絵も歌舞伎も『市川團十郎』も知れば知るほど大いなる魅力があるのだ。

市川團十郎代々

服部 幸雄  (著)

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