凄まじい映画を観た。
以下、ネタバレしながら感想と考察を書いていくので、映画をまだ観ていない方は映画を観た後に読んでいただけると幸いです。
JOKER
結論から言って、僕はこの映画を非常に素晴らしい作品であると思う。
ご存知、ジョーカーとはアメコミの人気ヒーロー『バットマン』に登場する悪役である。
だが、そのカリスマ的悪役の存在によって、今作の『ジョーカー』を受け入れられない人も多々いるだろう。
ジョーカーとは非情で冷酷、観ている者にとっては、ジョーカーの目的がわからないという恐怖がある。犯罪を楽しんでいる、その理由がわからないこそ、ジョーカーに対する不条理や不可解さが奇妙であり、おぞましいのだ。
しかし今作の『ジョーカー』では、ジョーカーの悪事に対しての理由にフィーチャーされて、悲惨な状況に堕ちていくジョーカーに同情して感情移入していく事が、この映画を受け入れるかどうかの分かれ目なのである。
大人気作『ダークナイト』という映画でのヒース・レジャー演じるジョーカーは、理由なき悪事であったからこそ絶大なる不気味さに包まれていて、ジョーカーの悪役としての魅力が映画全体の物語を引っ張てくれていた。
今作のジョーカーは無差別に人を殺しているわけではない。そこに理由が生まれているのだ。
「こんなのジョーカーじゃない!」と言う人にとっては、物足りない内容なのかもしれない。
今作『ジョーカー』は、不条理に街の中を暴れ回る悪ではない。
ジョーカーになってしまった一人の恵まれない男アーサーに対して、「悪い人なんかじゃなかったのに」と同情せざるを得ない展開になっている。
ジョーカーという人物によって描写された内面を深く深くえぐっていく心理状況と、ジョーカーの目に映る社会の残酷さが、観ている者の心にも鋭く迫ってくるのである。
まるで「お前はどうだ?」と刃を向けられているかのようだ。
そして、このジョーカーに共感した者たちは、「僕もジョーカーなのかもしれない」と、誰にも気付かれぬように心密かに泣いて笑っているのである。
喜劇と悲劇
コメディアンになりたい主人公アーサーは、脳に障害がある事が原因で、「笑いたいわけではないのに笑ってしまう」病気を患っている。
物語は喜劇と悲劇を交互に繰り返しながら、「笑い」と「泣き」を見せていくのだが、アーサーの笑い声は咽び泣いているかのように聴こえるのだ。
アーサーの生い立ちや自分の取り巻く現状は、とにかく悲劇だ。この男に優しく手を差し伸べてあげたいとさえ思う。
そんな悲劇とは裏腹に、いくつかの喜劇シーンが盛り込まれている。
・小児病棟で、子供たちを前にピエロになって踊っていたアーサーが、うっかり拳銃を落っことす。
・部屋の中で拳銃を手に構えていたアーサーが、手を滑らせて思わず発砲してしまう。
・一刻も早く部屋から逃げ出したい小人症の男がドアの上部にあるカギを開けることが出来ずに、アーサーに「カギを開けてくれ」と懇願する。
・警察に尋ねられていたアーサーが母の病室に戻ろうとした時に、自動ドアが開かずに思い切り全身でぶつかる。
・ラストシーン、チャップリンの映画のような追いかけっこで喜劇映画のようなカタチで「THE END」と締めくくる。
ラストシーンに至ってはお見事!だと唸った。
ジョーカーがパトカーの上で暴徒化した民衆を前に、自らの吐血した血を口紅のように手で左右に広げて、華麗にダンスをする。
ここでエンディングロールが流れるかと思いきや、まさかのコミカルな追いかけっこでの「THE END」。しかもたった今、殺人をした直後であろうアンバランスさが心地悪くて逆に素晴らしい。
北野武監督が「笑い」と「暴力」は似ていると言うように、「笑い」とは暴力のように突発的に起こるものである。
『タクシードライバー』と『キング・オブ・コメディ』
『ジョーカー』を語るうえで外せないのが、マーティン・スコセッシ監督の『タクシードライバー』と『キング・オブ・コメディ』だ。
両作品ともスコセッシ監督とデ・ニーロのコンビ作である。
20年程前に僕はデ・ニーロの異常なまでの役作りに興味があり、『タクシードライバー』と『キング・オブ・コメディ』を観た。
『タクシードライバー』は最近また見返したが、やはり素晴らしい作品だった。
『タクシードライバー』の主人公であるトラヴィスが、部屋で裸になって拳銃を構えているシーンはあまりにも有名。
『ジョーカー』でもアーサーが部屋で裸になって拳銃を構えるシーンがある。
トラヴィスが狂気へと変化を遂げてモヒカン姿になるのも、映画を異様な空気感に変える重要なひとつだった。
『ジョーカー』では、アーサーが狂気へと変化を遂げて、まさしくジョーカーになった。
『キング・オブ・コメディ』のデ・ニーロは、人気番組の司会者のコメディアンに対しての羨望を抱き、アパートで母親と二人暮らしをしている。
『ジョーカー』では、アーサーも同じ設定を用いており、人気番組の出演の妄想を含まらせる事も酷似しているのだ。
『ジョーカー』の人気番組の司会者コメディアンにデ・ニーロを起用したというのは、『タクシードライバー』と『キング・オブ・コメディ』のオマージュが多々あるからだろう。
また『タクシードライバー』の映画は、実際に起きた事件、アラバマ州知事ジョージ・ウォレスの暗殺未遂が元ネタになっている。『タクシードライバー』の脚本は、ある男の暗殺日記を参考にして書いたのだという。実はその暗殺日記を書いた男の名前が、『ジョーカー』の主人公と同じ名前である、アーサーなのだ。
現実と妄想
『ジョーカー』では、幾つもの現実と妄想が交錯する。
アーサーの母親も妄想癖があり、大富豪であるウェインとの間に出来た子供がアーサーだと信じているが、実際はアーサーは養子であった。
アーサーも酷い妄想癖で、人気バラエティー番組に出演しているという妄想や、アパートの同じ階に住むシングルマザーとの関係も妄想していた。
ラスト、逮捕されて精神病院でカウンセリングを受けているアーサーが発した言葉は物議を醸しだしている。
「あるジョークを思いついた」と笑うアーサーは、カウンセラーに「あなたには理解出来ない」と言う。
真意は謎に包まれているが、物語の全てがアーサーのジョーク、妄想であったのではないか?という事だ。
その理由のひとつには、ピエロによって両親を殺害された少年ブルース・ウェインは後のバットマンであるが、ジョーカーと対決するには、年齢差があり過ぎるという事だ。
観る人によって幾つもの解釈と考察がなされて、監督自身も答えを明かさず謎のままになっている。
僕個人的には、全てがアーサーの妄想であったとしたならば、凄くイヤなオチである。よくある「全てが夢だった」とかという夢オチが大嫌いなのだ。「今までの時間何やってん!」「バカにすんな!」と怒りがこみ上げる。
だから『ジョーカー』に関して、妄想オチだったとしたら、僕は発狂するだろう。
感想
アーサーがジョーカーになっていく過程では不穏な音楽が流れて、観ている者を一緒に暗闇の中を彷徨わせるかのようであった。
現在服役中の性犯罪者が制作した音楽を、一部使用した事で問題視もされているらしいが。
地下鉄で証券マンを銃殺したシーンでの、走る電車内の暗闇と光、電車の音と銃声と叫び声、逃げ惑う男と追いかけるジョーカー、その演出がとにかくお見事だった。
公開日当日に米ニューヨークの映画館で、ジョーカーが殺人をするたびに拍手と歓声を続けていた男が退場させられたというニュースがある。その男によって、3分の1の観客が映画館から逃げ出したという。2008年に公開された『ダークナイト』の上映中に起きた銃乱射事件のような悲劇が起きるのではないのかと、不安に駆られた人達も多い。
銃乱射のような事件は決して起こしてはいけないし、映画の中でのジョーカーの行動も許されるものではない。しかし誤解を招くかもしれないが、映画という作品において、僕はあのシーンで拍手や歓声を起こした男の気持ちはわからないでもない。
ジョーカーが銃を持って適当に殺人をするという、映画としてただつまらないシーンであったのなら、誰の感情を動かす事も出来ない。
地下鉄での銃殺シーンは、それ程までに衝撃的で、感情を動かす凄まじいシーンであったからなのだ。
咽び泣いているかのようにも聴こえるジョーカーの笑い声と、ジョーカーに交互に訪れる喜劇と悲劇の繰り返し。不穏な音楽とミステリアスな映像美、そしてホアキン・フェニックスの憑りつかれた狂気な演技、全てが凄まじく素晴らしかった。
ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した『ジョーカー』は、脚光を浴びる事のなかったアーサーにとって、最高の舞台でジョーカーとして脚光を浴びる事になった。
僕は、ジョーカーの走り方が好きだ。走って逃げる姿はドタバタ喜劇のようだ。
ひとつ僕が言えるのは、「悲劇に酔いしれる事は一番たやすい事である。喜劇に生きる事の方がずっとカッコイイ事なのだ」ということ。・・・なんつって。
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