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江戸時代中期の富士山大噴火はどう描かれたか?

1707年、宝永4年に起きた富士山の大噴火は「宝永噴火」といわれている。

江戸時代中期に起きた宝永噴火は、2020年現在では最も新しい富士山の噴火であり、現在に至るまで噴火はされていない。

現代社会では災害等の記録は写真や映像等を通して知ることが出来るが、江戸時代中期に起きた宝永噴火に関しての当時の様子を知るには、文章や絵で記録されたものを目にするしかない。

現在までに色んな多くの絵師たちが富士山をモチーフに絵を描いてきたが、今回は江戸時代中期に起きた富士山の宝永噴火を描いた絵に焦点を絞って解説していきたい。

 

富士山宝永噴火絵図


宝永大噴火の噴煙の高さは上空20kmと推定されている。

噴火による直接の死者は記録されていない。

主に富士山から東側の地域では偏西風にのって噴煙から降下したスコリアや火山灰よる火災、それらの急激な堆積などで甚大な被害が発生したのである。

大量の火山灰や砂を吹き上げて、江戸にまで灰を降らせたというのだ。

噴火は16日間にまで及んだという。

江戸の町にも大量の火山灰が降ったということだが、昼間でも暗くなってしまったようでありロウソクを灯さねばならなかった。2〜5cm積もった降灰は強風のたびに細かいチリとなって舞い上がって、多くの人が呼吸器疾患に悩まされたのである。

 

宝永山出現


葛飾北斎の『富嶽百景』という作品集の中では、『宝永山出現』と題された絵が描かれている。

まるで地獄絵図かのようなこの絵。

岩が降り注ぎ、家屋が崩れ落ちて、そこに馬が下敷きになる。人が宙を舞い、逃げ惑う人々。宝永噴火の様子を描いたものとされている。

宝永噴火は1707年、葛飾北斎は1760年生まれなので、実際に災害の様子を見たわけではない。

 

まとめ


富士山をモチーフに描かれた絵は壮大であり優美であり凄く好きなのだが、噴火を描いた災害の絵となるとイメージは変わり途端に怖くなってくる。

江戸時代中期に起きた宝永噴火ではあるが、現代において富士山が噴火したとなると江戸中期の被害を遥かに超えた想像以上の被害が出るのは計り知れない。

建物等が倒壊して火山灰で覆われた街を想像するだけで、かなりの恐怖である。

降灰に加えて、さらに雨が降ると停電の恐れもあり、通信網も交通網も遮断される。灰が積もると水の供給にも影響が出るし、下水管も詰まり溢れ出す。

目や鼻、気管支等の人体への影響も出るだろう。

今回は絵を通して江戸中期に起きた富士山の噴火、いわゆる宝永噴火を学ぶ機会を自分自身にも作って、この記事を書いてみた。

Photo by Nicholas Turner on Unsplash

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