雷電為右エ門(らいでん ためえもん)という江戸時代後期に活躍した、今もなお伝説として語り継がれている史上最強力士の存在を知っているだろうか?
今回は浮世絵を通して『雷電為右エ門』について紹介させていただく。はっけよい!!
勝川春亭 画
現役生活21年のうち、通算黒星はわずか10。大相撲史上いまだ破られることのない、勝率9割6分2厘という圧倒的強さを誇る。
優勝相当成績は35場所中28回。
初土俵時の体格が身長6尺5寸(197cm)、これはデカい!江戸時代で2メートル近く身長があったわけだから、かなりの大男である。
体重45貫(169kg)、筋肉質な巨漢で、こんなのに突進されて激突されたら、ひとたまりもない。
勝川春亭『勧進相撲土俵入之図』
雷電があまりにも強すぎて雷電には4つの禁じ手が課せられた「鉄砲・張り手・閂(かんぬき)・さば折り」は使用禁止とされていたのだ。
閂(かんぬき)とは、相手が両差し(もろさし)をしてきた腕を外側から抱え込んで動きを封じる技。その両腕を自身の両腕で外側から抱え込むように捕らえて相手の動きを封じる技であるが、雷電の閂で相手力士の腕が折れる事件が起こったことで、禁じ手の発端となったとされているが、この逸話の真偽は定かではない。
勝川春英 画
勝川春英 画
享和2(1802)年の長崎巡業で、中国の学者「李白の生まれ変わり」と噂された酒豪・陳景山との飲酒対決を行ったのだ。
陳は1斗(18リットル)を飲んでダウンした。18リットルも飲めばダウンして当然である。陳は悪くない。
一方、雷電はさらに1斗、合計2斗(36リットル)を飲み干して、高下駄を突っかけ傘を差して雨の中を宿へ帰ったという。ダウンもしちゃいねえ。まだまだ酒量の限界を見せないまま余裕で帰った。
翌日の夕方まで寝込んだ陳はあらためて雷電の酒豪ぶりに脱帽して、絵と書を贈ったのである。
史上最強の力士と謳われ、圧倒的強さを誇っていた雷電為右エ門は、何故、横綱になることなく大関止まりであったのか?
現在の横綱昇進の条件は「大関で2場所連続優勝」となっているが、その条件ならば雷電為右エ門は文句なしで横綱である。
勝川春英 画
しかし当時の横綱は現在のように明確な制度を確立していなかった。そこに横綱になれなかった経緯があるのだろう。
そして他にも横綱になれなかった色んな説があるが、どれも決め手に欠けるのだ。
「土俵上で対戦相手を殺した説」単なる講談ネタであり、事実ではないという。
「推薦を辞退した説」雷電が推薦を辞退した根拠や資料は存在しない。
「横綱免許を発行していた吉田司家(よしだつかさけ)の主家が、雷電の抱え主に対してライバル意識を持っていたから説」
誰がどう見てもケタ違いに強い力士が、何故、横綱になれなかったのか。もしくは、自ら横綱にならなかったのか。大きな疑問である。
高い教養もあったとされる雷電為右エ門、その魅力、伝説は後世にずっと語り継がれていくのである。
雷電為右衛門―古今無双最強豪力士
|
この記事へのコメントはありません。